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「編集長、顔に艶があります。リフレッシュしたようですね」
富士レークホテルのカフェで、向井葵が微笑んだ。グリーンとイエローとブルーが融合した花柄のワンピースを着こなし、グッチのバックを抱えていた。スラックスとスニーカーという普段のファッションとは比べようもなく華やかな着こなしだった。
「どうしたの、そんなにおしゃれして」
「ふふ」
笑っている向井だが、どことなく緊張していた。仕事の緊張とはまた別の雰囲気が漂っている。
「ひょっとしてデートなの?」
「まあ、そんなところです。実はお見合いなんです」
向井が少し照れながら、入会している結婚相談所のアプリを見せてくれた。
「仕事が忙しくて、婚活する暇がなくて。かといって、出会い系アプリは遊び人もいるみたいだし、ここはやっぱり、結婚相談所がいいかなと」
「そうだったの」
職場では、仕事以外のことをあまり話す機会がなかった。プライベートに立ち入ってはいけないという気遣いが時には邪魔なのかもしれない。婚活で悩んでいる女子編集者のことをもっと知るべきだったと後悔した。
「どんな人とお見合いするの」
すると向井はスマホを操作してから、
「編集長に見せるのはちょっと恥ずかしいんですけど」
と画像を差し出した。
目が大きく色黒の明るい表情の男性だった。年齢は向井よりも3歳上で、商社マン。趣味はサーフィンとある。激しい競争の世界に生きる男というイメージからほど遠く穏やかな顔つきだ。
「どこに惹かれたの?」と尋ねると「ここです」と相手への希望欄を見せてくれた。
『信念をもって生きていて、仕事を一生懸命に頑張っている女性を希望します。自分も仕事が大好きなので。結婚したら、できるだけ家事や育児に協力したいです。お尻を叩いてください』
くすっと笑うと、
「可愛いでしょ。お尻を叩いて、なんて」
「そうね」
と頷いた。
「たくさんの会員がいる中から、どうやって探すの」
「『さがす』というマークをクリックすると、希望の年齢や年収、学歴や趣味、婚歴などがずらりと出てくるんです。ここに自分の希望入れて検索を押すとずらりと出てきます」
向井葵が条件を入力して検索ボタンをクリックすると、男性の画面がずらりと出てきた。入会したばかりの男性は「NOW」という 赤の旗が出ている。一覧画面には、写真と年齢、職業が現れる。クリックすると、画面いっぱいの写真と会員番号と年齢が出てくるという仕組みだ。
「マッチングアプリと異なるのは。仲人からのコメントがついているところかな。相手に対する希望に、その人の人柄や事情なんかも、見えてくるんです」
「なるほど」
好奇心いっぱいでスマホの画面に見入っている今日子がずらりと載っている画面をスクロールしていると、ふいに知っている男性が出てきた。
「まさか」
思わずクリックすると、写真が大きく出てきた。ジャケットを着用しているが、彼に間違いない。普段のきりっとした表情だ。
スクロールしているうちに、向井葵の婚活アプリだということも忘れて、今日子は画面に魅入っていった
さくらい産科クリニックに到着したのは、午後1時を回っていた。受付で名乗ると、若い看護助手の女性が病室まで案内してくれた。そこは個室だった。
「山本さんの記憶がまだはっきりしていないので、今は個室で休んでもらっています」
ポニーテールの看護助手が病室のドアを開けると、生後まもない乳児と母親がすやすやと寝ていた。
安らかな表情を損なわないようにと今日子が病室を出ようとすると新田医師がやってきた。
「お見舞いに来てくれたんですね」
新田医師の嬉しそうな対応に、今日子は心が打たれた。偶然に見てしまった結婚相談所のプロフィールの文面が、まだ心に残っている。
「外で待っていてください」
看護助手と一緒にドア付近の廊下で待っていると、診察が終わった新田医師が、「どうぞ」と病室に招いてくれた。
今日子がクリニックまで送り届けた山本千恵は乳飲み子を抱きながら、ゆっくりとお辞儀をした。
「このたびは大変お世話になりました。無事に産むことができました」とお礼を述べた瞬間に、大粒の涙がボロボロとこぼれて、やがて、子供を抱えながら、声を殺して泣き出してしまった。
「大丈夫ですか」
と今日子が背中をさすると、山本は今日子の手を強く握った。
「私とこの子を助けてくださってありがとうございます」
新田に視線を移したが、彼は無言のまま、乳飲み子を抱いた母親をそっと見つめていた。
院長室のソファーに腰を掛けて日本茶をすすっていると、ノックに続いて新田が入ってきた。白衣を脱いで白いワイシャツ姿の新田は、年齢の割には若々しく見えた。
「お待たせしてすみません」
「いえ、仕事のメールをチェックしていました」
タブレットをバッグにしまってから姿勢を正した。
「私にお話とは、山本さんのことですか」
「そうです」
新田医師がテーブルをはさんで、今日子の前に座った。窓から初夏の強い日差しがこぼれてくる。
病室で泣きじゃくった山本千恵に、杖をついた車いすの母親が着替えをもってきたことを新田医師がどう感じていたのだろう。
孫の顔を見ないようにして、新田医師にお辞儀をしてから、そそくさと病室から出ていった。孫の誕生を祝おうとしないのは、深い事情があるかもしれない。
「すみません」
あのとき、千恵が謝った。子供が急に泣き出したので、抱きかかえてあやしている千恵の頬に、一筋の涙が流れた。
「おかしいですか。両親に反対されても、子供を産みたいというのは。誰にも望まれない子供でも、産むと決めた親は、間違っていますか」
小刻みに震える千恵の声が消え入りそうになった。
「思わないわ。産むと決めて産んだわけだから、あなたは立派よ」
「立派なんかじゃないです。だって、この子の父親は……」
そういいかけて、千恵は口をつぐんだ。事情があることは薄々感じていたが、子供を産むという選択を貫いた知恵を尊重したいと今日子は思った。
「私が山本さんを見つけた時に、どうしてあの場所にいたの? びっくりしたわ」
「すみません」
「謝らないで。私は山本さんを助けて良かったと心から喜んでいるの」
偽りのない気持ちを伝えた途端に、今日子はすがすがしい気分になった。母子共に元気で、病室で対面できたのだ。今日子は、バックからブルーベリーの缶ジュースを2本出した。宮内へのお土産だったが、ブルーベリーの風味が、千恵を元気にしてくれるような気がした。
「この辺りで有名なジュースみたい」
千恵にジュースを渡してから、今日子は缶を開けて、口に含んだ。甘酸っぱさが、口中に広がっていく。
「おいしいわよ」と勧めると、すやすやと寝息をたてている子供の顔を覗き込んでから、千恵も缶を開けた。
「美味しい。こんな美味しかったなんて」
少しの間、宙を仰いだ千恵は。「ろくなものを食べていなかったんです」とぽつりと打ち明けた。
「どうしてですか」
とベットの近くにある折り畳みの簡易椅子を組み立て、座りながら今日子は尋ねた。
「両親に妊娠のことを話しました。一人で産んで育てると。相手のことは一言も話しませんでした。でも父親が激怒して」
好きになってはいけない相手の子供だということを、両親が察したためだった。
「父は私を追い出しました。それまで足の悪い母親の代わりに家事をやっていたので、追い出されて困りました。仕事をするといっても、妊婦は雇ってもらえないとわかって。そこで母親に頼んで、離れにある小さな部屋で父親にばれないようにこっそりと暮らしました」
千恵の身の上話に、動揺を隠しきれなくなった今日子は、ジュースを飲み干すのを止めた。たった一人で、お腹の子供を育てていた千恵の気持ちを想像すると、悲しさとやりきれなさでいっぱいになった。そして自分だったら、絶対にできないと思った。
「足の悪い母親の代わりに食事を作ったり、掃除をしたりと、いつも通りに家事をこなしていましたが、妊娠8か月目ぐらいから、体が思うように動かなくなって」
「それまで、病院に行っていなかったの」
「はい。面倒なことを聞かれそうなのが嫌だったから」
「そうだったのね」
ネットでさくらいクリニックを見つけた時に、産気づき、しかも、父親に見つかってしまった。娘の大きなお腹を見て、逆上した父親が山本さんの腕をとって、部屋から引きずり出そうとした。必死に抵抗して父親を突き飛ばし、走って道路に出た時に、今日子が運転する車が通りかかったのだという。
「そういうことだったのね」
「はい。偶然というには、あまりにもタイミングがよかったです」
千恵は再び泣き出した赤子を抱きかかえて、あやし始めた。窓のカーテンから漏れてくる光に包まれた母子は、慈悲に満ち溢れ。今日子は印象派のメアリー・カサットの母子を描いた絵画のようだと思った。
作家 夏目かをる

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