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【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第二章~今日子の場合(13)

【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第二章~今日子の場合(13)

第二章、WEBメディアの編集長としてキャリアを積む独身・今日子。ミステリーだった過去からの手紙の理由が明らかになって安心する今日子だった。


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ここはどこだろう。

目が覚めた今日子は二度瞬きをしてから、やっと河口湖の富士レークホテルに宿泊していることを思い出した。

ノブミツと電話で話してから、富士山が展望できる貸し切りの温泉に一人でゆったり浸かってから、部屋で久しぶりに日本酒を飲んだら、酔いが回ってしまった。浴衣のまま、ベットに横になって、そのまま寝てしまったのだ、

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起き上がってカーテンを開けると、朝焼けの富士山が目に飛び込んできた。後光が差し込む頂上には、天上人が住んでいるような錯覚をもたらした。

朝食までまだたっぷり時間がある。

バスルームの前でスリッパを脱いで裸足になると、足の親指の赤いペテキュアが爪先のあたりで少し剥げていた。熱いシャワーを浴びると昨夜ノブミツに電話をしてから、やっと落ち着いたことを思い出した。転送された手紙の真相、そして初恋の男に似た男性に出会ってしまったことも、ノブミツに打ち明けたら、これまで心をがんじがらめに縛っていた縄のようなものがするするするっと解けてくるような、軽いめまいを覚えた。

「あんたが初恋の男に未練を感じているんじゃないのよ。初恋の男の義理の娘にやったことが原因で、娘と百合を重ね合わせてしまったのよ。罪悪感があったからね」

図星だった。ノブミツの洞察力に言葉もなかった。

夫に愛人がいることがわかってから、どんどん変化していった百合。そして飛鳥といういじめから救ってくれた友人に再会してから、百合が生きる勇気をもらったことを知ると、たまらなく百合に謝罪したくなった。でも百合の顔を見るたびに、初恋の男の義理の娘の顔と重なってしまって、面と向かって言えなくなる。それが苦しかった。

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洗った髪の毛をタオルでくるみ、バスローブをまとい部屋のソファーに座って、テレビのリモコンを押した。ニュースではヨーロッパで起ったテロ事件が報じられ、台湾で人気沸騰の女優が失踪した謎に迫り、また日本では北海道で地震が起こったことが報道され、世界はいつ事件に見舞われるか分からないと力説していた。

人生はいつどんなことが起こるかわからない。でも窓から見える富士山は、騒々しく変化する世界とは無関係に、悠然とした姿をたたえていた。今日子は立ち上がって、スマホを手に取った。夢中で百合の電話番号をプッシュした。

5度目のコールで、「おはよう。早いね、どうしたの」といういつもの優しい百合の声が耳にするするっと流れた。

「百合、私ね、百合に謝らなければならないことがあるの」

途端に熱い涙が頬を伝わっていく。

「もしもし。今日子、どうしたの」

百合の声はあくまでも優しかった。その優しさが今日子の心をゆっくりと癒やしていった。

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初恋の人は、隣に引っ越してきた男性だった。

沈丁花の香りに誘われて庭に出てみると、大きなトラックから荷物が運ばれ、長身の男性がてきぱきと業者に指示をしていた。トラックが去ると、男性は庭に水を撒きながら鼻歌を歌っていた。

隣の家の二階にある出窓から、毛並みの良いグレーの猫が外を見下ろしている。

「ブルー、ここだよ」

男性が猫に手を振った。猫に向かって満面の笑顔を見せる。17歳の今日子はすっかり魅了されてしまった。

どきどきしながら、男性を眺めていると、今日子が飼っている白い猫のホワイトが突然隣の家の庭に入り込んで、バケツをひっくり返した。それがきっかけで今日子は男性と話をするようになる。

男性の名前は水口新太。35歳の研究者だった。

水口が飼っているロシアンブルーとホワイトが秋の陽だまりの中で、じゃれ合っているのを水口と一緒に眺めた。弾むようなわくわくした感情の高まりと、幸せ過ぎて心が締めつけられるような痛みが入り混じった。

「これが恋なのね」と宝物をいとおしむように、心の中で何度も反復した。あの親子が引っ越して行くまでの短い間に、何度も。幸せはあっという間に終わってしまった。

「今日子が私に謝罪したいのは、初恋の男性の義理の娘に、私を重ね合わせているからね」

電話の向こうの百合は、今日子を慰めてくれた。過去はもういいのよ、と。

「でも私は自分を許せないの」

水口の引越しから10日後に、水口の妻と娘が越してきた。妻は水口よりも7歳年上の42歳で、夢見がちなおっとりした女性だった。娘の菜穂子は今日子と同じクラスに転入した。いつもどこか遠くを見つめている菜穂子は、自分の世界を固守しようという自尊心に満ちていて、独特の雰囲気を持っていた。

今日子のほのかな初恋物語はそこで終了するはずだった。

「私には菜穂子さんをいじめた記憶がほとんどないの。いじめグループにいじめられていたのを無視したことぐらいしか覚えていないの」

菜穂子がいじめグループに取り囲まれたときに、何度も今日子に助けを求めた。怯えた表情で、目で「助けて」と訴えていたのだ。

その日の放課後も今日子は目をそらして、その場を去った。菜穂子の悲鳴が聞こえる。暴力に負けまいという菜穂子の抵抗する声が何度も何度も聞こえる。耳をふさいで、その場から走って立ち去ったが、教示と罪悪感がじわじわっと湧き出てきて、今日子は隣の家に向かった。偶然に水口が仕事から帰ってきたばかりだったので、ことの次第を話すと、水口は血相を変えて、義理の娘を助けるために全速力で駆けていった。

「翌日から菜穂子さんが学校を休んだの。入院したそうよ。それから一か月も経たないうちに、隣はみんないなくなった、猫のブルーも」

今日子は床に座り込んだ。一気に話し込んだために、放心状態になってしまった。スマホを持つ手から力が抜けていく。

「もしもし、今日子」

百合の声にはっとして、スマホを握りしめた。

「今日子は初恋の男性の義理の娘さんをいじめた時もあったけど、最終的に助けたのよ」

百合の声が耳に強く響いていく。

「でも、挨拶もなしに越したのよ。きっと私を憎んでいる」
「まさか。急に引っ越すことになって、挨拶どころじゃなかったのよ」
「そうだったらいいけど」

いつの間にか泣いていた。

「ずっとずっと、恨まれているんじゃないかって、初恋の男に」

涙がいつまでも流れていく。まるで子供のように泣き続ける今日子に、百合が母親のように慰めた。

「今日子、悲しいのは、恨まれているという不安じゃないのよ。初恋の人がふいにいなくなったからなのよ」

いなくなった。彼がいなくなった。心に空洞ができたように、虚しかった。埋め合わせるものもなく。

「17歳で初めて喪失感を知ってしまったから、悲しいの。でもそれを知ったから、今日子は大人になっていったのよ」

百合の優しい言葉が、今日子の涙をいつまでも誘い出していた。

作家 夏目かをる



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