【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第二章~今日子の場合(10)

【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第二章~今日子の場合(10)

第二章、WEBメディアの編集長としてキャリアを積む独身・今日子。年上男性との新たな恋が始まろうとしていた。


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午前9時の中央自動車道に、初夏の風が軽やかに通り過ぎていく。

大月あたりから見え隠れしていた富士山が、上野原周辺から富士吉田方向に向かう途中で、堂々とした風格のある美しさを見せた。思わず「わあ!」と今日子は感嘆の声を挙げた。白い頂上から神々しいまでの光が放たれている。

「まるで神殿に向かっているみたい」

興奮すると自然にハンドルを持つ手に力が入り、スピードを上げて軽やかに車道を駆け抜けていきたくなる。宮内から借りた彼の愛車は今日子の興奮ぶり抑えるように走行していった。

富士山が景色に埋もれて見えなくなった時だった。助手席に置いてあるスマホからコールが響く。左手で操作してスピーカーをオンにした。

Getty logo

「もしもし」

相手は取材者のPR担当の田中だった。

「これから石川先生と合流して、富士レークホテルに向かいます」

今日子はスマホを左手で引き寄せた。

「承知しました。私も予定通りです」

スピーカーをオフにしてからアクセルを強く踏むと、オレンジの車体が心強く滑り出した。河口湖畔に咲き誇るラベンダー庭園を描いた画家で医学博士の石川保志にやっと取材アポが取れたのは、梅雨がまだぐずぐずと残っていた頃だった。石川を一躍有名にした河口湖畔にあるラベンダー庭園を背景に、写真撮影と取材が決まったのはつい一週間前。ところが取材前日の夜に、カメラマンが急病で倒れてしまったのだ。

運よく山梨県在住のカメラマンが見つかり、カメラマンと現地集合になった。河口湖まで電車を乗り継いでもよかったが、ドライブがしたくなったので、前日の夜遅く宮内に「ビートルを貸して」と頼んだ。快諾した宮内が、わざわざ早朝に今日子のマンションまでピートルに乗って届けてくれたのだ。

「ありがとう」

滑り込むようにオレンジ色のビートルに乗り込んでから、初めてのビートルをスタートさせると、アクセルの軽やかさが心地よく、嬉しくなった。今日子は「ありがとう」と言いながら宮内に手を振った。

心地よい車を持ってきてくれる口当たりの良い男。

「口当たりの良い男」という言葉がすらすら出てくると、今日子は少しだけ罪悪感を抱いた。
「男が愛してくれるほど、女は男を愛していない」

昔読んだフランスの恋愛小説にから引用したようなフレーズが口からこぼれた。するとほの暗い後ろめたさが今日子の心をゆっくりと覆った。

作家の氷室京介の受賞パーティーで氷室から紹介された宮内と「カフェ・ソサエティ」で再会してから、宮内は今日子を食事に誘うようになった。3度目のデートの時に、宮内から告白されたが、恋人になるという約束をしないという条件で交際を承諾した。「縛られるのはいや」という今日子のわがままを宮内が許してくれたのは、大人の男性のたしなみだったのだろうか。

Getty logo

「今日子は愛され過ぎるのが苦手なのよ」

昨夜はカフェ・ソサエティのマスターのノブミツが、いつもの毒舌で今日子の心をチクチクと刺激した。

「あんたはね、愛されるよりも愛したほうがいいわよ。その方がまともになれる」

宮内にわがままな愛を要求したことを知っているような口ぶりに、

「そうねえ」と軽く頷いた今日子。

宮内のことは嫌いではないから、このままの関係でいいと思っている。まるで惰性に近い感覚だった。坂口健太と自然消滅に近い形で終わったが、でもまたいつか坂口とも復活するかもしれない。

「恋愛より今は仕事が楽しいの。サイトの存続危機を乗り超えてから、仕事におけるウエイトが恋愛よりも勝ってしまったわ」と言い切ると、なぜか虚しさが沸きあがった。

「こうやって仕事が生きがいになっていくのかしら」

仕事が生きがいになると、恋することが億劫になって、次第に男性からデートに誘われなくなるかもしれない。寂しさに耐え切れずに、犬や猫を飼って孤独を癒す永遠のシングル族になっていくのも目に見える。ペットが亡くなると我が子を亡くしたような悲しみに押しつぶされるほどのペットロスに陥って、再び孤独な人生を歩んでいくことになるのかしら。

今日子の不安を、ノブミツが「妄想!」と一蹴すると、カフェ・ソサエティの他の客たちも和んだ表情になった。そこで今日子が宮内に「愛車を貸して」と電話でお願いをしたのだ。

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中央自動車道が富士吉田市に入ったあたりで、再び富士山が現れた。今日子は脇道に入り、富士山をもっと堪能しようとした時だった。前方に人がうずくまっているのを発見した。

ブレーキをかけて外に出ると、体を丸くしてうずくまっている女性が、苦しそうなうめき声を発していた。

作家 夏目かをる



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