【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(最終話)

【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(最終話)

(前回までのあらすじ)成功者の夫に子どもふたり、アパレルブランドのディレクターとして人も羨むような人生を歩んできた百合。しかし夫の不倫が発覚し、心は揺さぶられる。そんななか会社の後輩・新垣との距離がグッと縮まるできごとが。苦しい過去を共有する同士の女優・井本飛鳥に出会ったことで百合はまた新たな心のステージを迎える…。


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 ドアを開けると、玄関のたたきに乱暴に脱ぎ散らかした健司の靴があった。午後9時前に帰宅するなんて、珍しい。いつもと違う空気を感じながら、百合はリビングのソファでうなだれている健司に「ただいま」と声をかけた。

 するとしばらくしてから「ああ」と頭を挙げた。健司は憔悴しきっていた。
結婚してから一度も見たことのない表情に、一瞬たじろいだが、、気を取り直した百合は「話があります」ときっぱりとした口調で切り込もうとした。だが健司は、「後にしてくれ」とまるで百合のことなど眼中にないという素振りをする。

その時、テーブルの上の健司のスマホからラインの画面が現れた。慌ててスマホをつかんで確認すると、またがっくりとうなだれた。それから百合に「明日香がきみを呼んでいる。部屋にいってあげてくれ」と、まるで消え入りそうな声で頼んだ。


 明日香の部屋のドアをノックすると、「ちょっと待って」と鼻をチンとかんでから、明日香が「いいよ、ママ」と応えた。ベッドに腰かけていた明日香は泣き顔だった。そして「どうしたらいいかわからなくなった」と声を震わせた。

 娘の悲しさが伝染してくるのを払いのけて、

「大丈夫。ママがここにいるわよ」

と百合は駆け寄って、娘の背中をさすった。

「パパ、リビングにいるでしょ。私がラインしたら、すぐ帰ってきた」

「パパと喧嘩したの」

首を振った明日香は

「パパのライン見たの。女の人と、変なこと、いっぱいしている」

「そうだったのね」

 思わず軽いため息が漏れる。愛人の及川美和のことが明日香にもわかってしまった。しかも健司のラインからだなんて。二人のやりとりが、生々しく明日香を傷つけたに違いない。

「ママ、知っていたの」

「ええ」

「どうして止めなかったの」

「パパが気づいてくれるのを待っていたの。パパはあなた達の父親だわ。帰ってくると信じていたの」

「今でも?」

「……」

 即答できなかった。即答できないことが、答えになっていた。明日香は賢い娘だった。

「ママ、私ね」

明日香が深呼吸をしてから、百合の顔をまっすぐに見つめた。

「私はいつだって、ママの味方だよ」


 父親としての裏切りに思い切り傷つくよりも、母親のことを気遣ってくれる娘がたまらなく愛おしくなった。思わず「明日香は心配しなくていいのよ」と抱きしめた。

「ママはもう大丈夫。あなたたちのことを最優先に考えているわ」

 それから明日香のほつれた髪の毛を手櫛で整えた。こうしてはいられない。百合は体中から熱いものが湧き出てきた。それはこれまでの百合に欠けていた闘志だった。

「今夜はパパと話すつもりなの。終わったら、温かいお茶を持ってくるわね」


 向かった先は、ゲストルームだった。戸棚から結婚祝いにもらった北欧製のガラスのグラスを取り出して、元の箱の中に閉まった。そして戸棚の引き出しから、結婚式の写真アルバムや披露宴の招待客の名簿を空の段ボールの中に入れた。懐かしい思い出がいつのまにか、自分自身を閉じ込めるほど牢獄になっていたことに気づいた。

「何をしているんだ」


 ゲストルームの前に健司が立っていた。だが健司を無視して、百合は無言でひたすら段ボール箱に結婚式の思い出をしまい込み続けた。そして作業が終わると、エアコンが効いていないことに気づいて、ぶるっと震えた。

「明日香から聞いたのか。それで荷物をまとめているのか」

 健司がまだいる。ふっと闘争心が動き出した。

「用賀のマンションの駐車場で見たの、あなた達を。子供たちに気づかれないようにしたけど、明日香があなたのラインを見て知ったのね。黙ってあなたを待っていたことが無駄だったわ」

 淡々とした百合の口調に戸惑った健司が「そうか」うなだれると、百合はこれまで我慢してきたことが一度に爆発していった。

「私たちの結婚は、私が決める。もしあなたの愛人問題で私が離婚すると決めたら、私の条件で離婚をするわ。それまで、17年前の結婚式のことは封印しておくわね」

 レストランの前には、クリスマスの飾りをまとったきらびやかなツリーが百合と明日香、そして匠を出迎えてくれた。予約した恵比寿のレストランに到着すると、従妹の七海と5歳年下の夫の武史が先にテーブル席についている。
「七海おばちゃん。きてたの」
匠が七海に駆け寄ると、「そうよ、匠ちゃん。はい、これ」とクリスマスプレゼントを七海が渡す。「うれしい」とはしゃいだ匠がテーブルにぶつかりそうになった。

「おとなしく席について」と百合がたしなめると、「はい」と席についてから、匠は大好きな七海に学校のことや友達のことを話し出した。明日香も七海からプレゼントをもらうと「私も」と七海に大きな赤いリボンとサンタの包装紙でくるんだギフトを差し出した。

「なに、これ」

「開けてみて」と笑みを浮かべる。

「明日香ちゃんからのプレゼント、なんだろう」とうきうきと七海がギフトの包装紙を解くと、「ダイエットセット」と書かれた固形のボックスが現れた。

「いやだ、これ、なに」

と七海が声をあげると、

「七海おばさんがこれ以上デブらないようにという私の気遣い」と明日香が笑う。

 だが七海も負けていない。

「ダイエットは明日からにする。今日はイブのディナーを楽しむの」と言い返した。だが「いつも『ダイエットは明日から』って言っているよ」と七海の口真似をして、みんなを笑わせた。

 ほほえましい光景に、明日香に全てを話して正解だったと百合は安堵した。これも飛鳥のおかげだ。健司に「離婚するかどうかは私が決める」と啖呵を切れたのも、「幸せになろう」と自分自身に強く言い聞かたからだ。飛鳥との再会の夜に、百合の心が大きく変わった。

 七海と笑いあっているのは、明日香の精神が安定している証拠だ。きっと強くなった母親に以前よりも信頼を持てるようになったからだろう。


 あれから飛鳥と毎日のようにラインのやりとりをしている。中学生の頃に別れても飛鳥のことがどうしても忘れられなかったから、娘に同じ名前の『明日香』と名付けたことを打ち明けると、感激してくれた。夫に啖呵を切ったことも「よく頑張ったね」と褒めてくれる。百合にとって飛鳥は壮絶ないじめから逃げ出した同士であり、また少し上の姉のような存在にも思えた。

「パパ、遅いね。お腹すいた」と匠が騒いだ。

「もう少し待ってみましょう」となだめながら、スマホを覗くと、新垣からメリークリスマスのメッセージが届いていた。電話番号からのショートメールだった。

 窓ガラスに、テーブル席の近くにあるツリーが映っていた。ガラスに反射すると、不透明な光が集まって、ぼんやりとした陰影が霞んで見える。新垣と門前仲町を散歩したこと日のことが鮮明に思い出された。胸が少し、苦しくなった。

 コレクションの成功を兼ねた忘年会が行われたのは、3日前のことだった。運営を手伝ってくれた倉庫部門も参加し、代官山の鳥料理の店に部下を引き連れてきた新垣は、「主任」と部下から呼ばれて慕われていた。一か月ぶりなのに、気のせいか新垣が一回り大きくなったように見えた。

 コース最後の鳥ラーメンが出てくる前に自然に席移動になって、気がつくと新垣が隣に座っていた。
「ごぶさたをしています」とぺこりと頭を下げると、ほろ酔い加減の百合が新垣の前にあるおちょこにお酒をついだ。熱燗が大好きだという新垣は、恐縮しながらも、くいくいと飲みっぷりを披露した。コレクションの話題から、やがて新垣は姉のことを口にした。

「姉の死の謎がわかったんです」

 百合が新垣の横顔を見つめる。目と目が合うと、新垣が「自殺じゃなかった」と頷いた。
 あの日、新垣から打ち明けられた「ゆるやかな自殺説」を否定すると、百合は、「お姉さんはどんな男性を愛したのかしら」と呟いた。その言葉が心の奥に深く刻み込まれると、新垣は姉の愛のゆくえを知りたくなった。残されたパソコンからロックがかかっているフォルダーを見つけると、専門家に依頼して、それを解除してもらったのだ。

「そこには長身でがっしりとした体つきの理性的な顔の男性とツーショット写真が十点以上あったんです。黒の縁の眼鏡をかけた男性と一緒に。姉はメガネ男子が好きだから、交際していた相手ではないかと思って、姉の女友達に電話してみたら、すぐにわかったんです」

 相手は姉が当時担当していたオランダの企業の役員だった。ツーショットの写真の背景には、チューリップ畑や水車が写っていた。姉が男性に会うために、オランダを訪れていたのだ。

「男性に連絡をとってみました。いきなり電話をかけたせいか、驚いていました。でも姉と結婚の約束をしていたことを話してくれました。ところが男性の母親から結婚を反対されて。男性は母親を説得していた矢先に、姉が死んだそうです」

 結婚の約束をしていた男性が存在していた。それは姉の死が自殺ではなく、事故死だったことを物語るのではないだろうか。

「来年、オランダに行きます。姉の婚約者に会います。会って、姉がどんな人だったのかを、聞いてきます」

 姉のことを何も知らなかったという新垣の横顔には、大人の男の表情が漂っていた。悲しさも悔しさも、そして苦しみ抜いてきたことを丸ごと自分で受け止めて生きてこうとする孤独が、見え隠れする。この一か月間で、人生の光と闇の両方を兼ね備えるほど新垣は成長した。彼が眩しかった。

百合はこれまで経験したことがない感動に包まれた。それは一人の男性が成長していく過程を魂の柔らかい部分まで、細やかに見たからだろう。新垣の横顔が美しいと思った。ほろ酔いのせいにしたくないと思えば思うほど、ときめいていくのを感じた。

「ごめん。待たせてしまったね。先に食べてくれてもよかったのに」

 慌てて駆け込んできた健司が、オーバーコートを脱ぐと、明日香と匠にクリスマスプレゼントを渡した。大喜びの匠とは反対に、淡々と受け取る明日香を、七海が不思議そうに見ていた。
 クリスマスシャンパンで乾杯すると、前菜が運ばれてきた。フォァグラのテリーヌ、キッシュ、マリネに牡蠣の燻製が、グリーンリーフとプチトマトに添えられて、綺麗に盛りつけされていた。

「牡蠣ね」と七海がフォークでつつくと、健司が「お腹が空いた」と子供のようにぱくついた。牡蠣にまつわる苦い思い出すら、綺麗に忘れてしまったかのように、次々と平らげていった。
高級牡蠣を一緒に食べた愛人と別れたと昨夜告げられても、百合は何の感慨も湧き上がってこなかった。

「もし、夫に新垣のことを話したら……」

 百合はフォークとナイフを動かす手を止めて、テーブルをはさんで食べ続けている健司をまじまじと眺めた。妻であり、母親であり、そして女である自分が、ある男性の成長した姿に感動し、そしてときめいていることを、目の前の男は理解できないどころか、きっと否定するだろう。妻という女のことを何もわかっていないのだから。

 百合は再びナイフとフォークを動かして、前菜を食べながら、新垣の大人びた表情を心の中で何度も反復した。

レストランにクリスマスソングが流れ、ツリーのきらびやかな光が、いつのまにか幸せをもたらしてくれた。

(第一章 百合の場合 ₋終₋)



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