【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(7)

【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(7)

(前回までのあらすじ)成功者の夫に子どもふたり、アパレルブランドのディレクターとして人も羨むような人生を歩んできた百合。しかし夫の不倫が発覚し、心は揺さぶられる。そんななか会社の後輩・新垣との距離がグッと縮まるできごとが。さらに百合の苦しい過去を知る女優・井本飛鳥に偶然出会う。


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ルート246沿いにあるスタバからテイクアウト用の紙バックをもった百合は、車道に止まっているワインレッドのシトロエンの運転席に向かって手を挙げた。ドアが開くと運転席の井本飛鳥が「スタバ、混んでいた?」と尋ねた。

フロントガラスが継ぎ目なく上部にぐるりと広がっている空間に飛鳥が佇んでいるだけで、優雅な絵になる。さすがは女優だと感嘆しながら「少し混んでいたわ」と助手席に座った百合はシートベルトを付けると、シトロエンが軽やかに滑り出した。

窓から通り過ぎるクリスマスのイルミネーションの光が眩しかった。

「綺麗ね」

百合がため息をつくと、「そうね」とハンドルを握った飛鳥は表参道から神宮に向かう道から路地に入った。バストの近くまであるロングヘアの毛先を巻き上げた飛鳥の栗色の髪が艶やかに光っていた。



「声をかけてくれてありがとう。びっくりしたけど、嬉しかった」

運転席の飛鳥の端正な横顔を百合が見つめると

「すぐにわかったわ。ちっとも変っていないね。百合ちゃん」

百合ちゃん呼ばれると、ほっこりと懐かしい気持ちになった。一方で過去の思い出が次々と蘇ってくると胸が苦しくなる。

「来年でもう30年ね」と百合のほうを振り返る飛鳥の瞳は、あの時と同じように大人じみた深さをたたえていた。そして飛鳥はゆっくりとシトロエンを教会の近くの小さな公園の前に止めた。

「私はあの時からずっと飛鳥さんのことが気になっているの。映画もテレビドラマも全部見ている」


すると飛鳥が「うわっ、ファンだわ」と慌てて姿勢を正すと、そのおどけた姿に、百合がくすりと笑った。

「ユナ・リサという女優をドラマで初めて見た時に、飛鳥さんだとすぐわかった。無国籍風の名前ね」

飛鳥は正面を見ながらゆっくりと頷いた。

「ユナ・リサという名前はね、過去を断ち切って再生しなさいと事務所の社長がつけてくれたの」

「すべて話したのね」

と言ってから、百合はしまったと後悔した。芸能事務所の社長に話すのは当たり前のこと
だと恥ずかしくなったが、飛鳥は気にせずに「そうよ」と答えた。

「あのことを全部話しながら、芸能界で生きる覚悟を確認したの。あれに比べたら、どんなことでも耐えられる」

飛鳥は深いため息をついた。

「そうなのね」とまた珈琲をすすると「そう」という飛鳥はカフェモカのカップを強く握りしめた。

井本飛鳥の美貌は小学校の頃から有名だった。横浜の私立女子中学校の一年生のクラスメイトのほとんどが、こぞって飛鳥と友達になりたいと熱望した。だがそんなときに事件が起こった。



「父が脱税で逮捕されて陰口をたたかれた時に、かばってくれたのは百合ちゃんだけだったね」

当時ベンチャー企業というネーミングがなかったものの、飛鳥の父親は半導体の最新技術をもって大企業と共同でビジネスを推進していた。ところが国から不正に助成金をもらっていたことがわかって逮捕。経理が不正を働いたことが後からわかり、飛鳥の父親の無罪が証明されたが、飛鳥の美貌を前から妬んでいた女子バスケット部と演劇部の部長が組んで、部活の女子生徒数人が飛鳥をいじめるようになった。

「壮絶ないいじめだった。事務所の社長に打ち明けたら、表情が変わっていくのがわかったわ」

持ち物をゴミ箱に捨てられ、お金を恐喝された。女子トイレで暴力を振るわれ、千枚通しを椅子に置かれた。リーダーはバスケット部の部長で、元カレが小学校の頃から飛鳥に憧れていたという嫉妬も、いじめを加速させていった。

「夏休みが近づいた放課後だったね」

飛鳥が百合を見つめた。潤んだ瞳に、百合は吸い込まれそうになった。

「自殺の練習をさせられたわ。リーダーにナイフを握らせられた」

学校の近くの丘でセーラー服の女生徒数人にぐるりと囲まれた飛鳥は、しゃがんでリストカットを強要させられた。右手にカッターナイフを無理やり握らされた飛鳥は、左手の白い手首にナイフをあてがうように命じられた時だった。

「やめて」

14歳の百合が走りこんで飛鳥の手からカッターナイフを奪った。飛鳥の手を引いて逃げ出そうとしたが、いじめグループのメンバーから足をけり上げられた百合は前のめりに転んだ。後ろから押さえられた飛鳥が両腕をねじ込められ、顔を地面にこすりこまれた。

「いい根性だね」とリーダーが口汚く百合をののしった。細い目でギラリと睨み、「やれ!」とリーダーが命じると、メンバーたちが百合にカッターナイフを握らせて、振り回そうとした。必死に抵抗するものの、二人がかりで押さえつけられた百合。さらに別のメンバーが取り出したナイフで頬を撫でつけた。ナイフの冷たい感触が伝わる。夕方の日の光でナイフが反射すると、ギラギラっと光った。

恐怖のあまり体がこわばる。逃げなければ。だが冷徹な光を帯びたナイフは容赦なく、百合を追い詰めていく。振り上げられたナイフが捕まれた手首に振り下ろされようとした時だった。丘の向こうからメンバーの一人が叫んだ。

「ストップ、ストップ」

盛んに手を挙げて合図するメンバーを確認したリーダーが「みんな。やめろ!」と命じると、一斉に学校と反対側の方向に向かって走り出した。地面に放り出された百合と飛鳥は、荒い息を整えながら「大丈夫」と声を掛け合った。

這いつくばりながら、百合が飛鳥のそばに寄り、「ここにいてはいけない」と飛鳥の手に手を重ねると、飛鳥は「そうね」と息を整えた。初夏を告げる夕方の光が二人を包みこむと、二人はよろよろと立ち上がって深呼吸し、セーラー服についた土を手ではらったーーー


「伊藤先生、亡くなったのよ」

カフェモカを飲み干した飛鳥が、ぽつりとつぶやいた。百合は言葉を失った。

「いつ」

「去年よ。うちの母から聞いたの。交通事故だったそうよ」

伊藤先生は赴任してきたばかりの30歳の社会科の先生だった。黒い眼鏡をかけた長身の伊藤教諭が、いじめを見抜いて学校に報告したが、リーダーの父親が理事の親友だということがわかると、学校側がもみ消そうとした。放課後に伊藤先生から呼び出された百合と飛鳥は、伊藤先生から転校を勧められたのだ。

「伊藤先生がいなかったら……私たちどうなっていたかしら」

あの日、学校から見える景色がモノトーンから、色彩を帯びたように見えたことを百合は鮮明に覚えている。たった一人でも、大人が味方についてくれている。涙が出そうに嬉しかったが、同時に自分が力を持っている大人じゃないことが悲しかった。自分自身を守れないほど弱い自分が歯がゆかった。

「私もそうだったわ」

飛鳥が声を震わせた。

「早く大人になりたいと思った。大人になっていじめられたあの時の自分を超えたい、強くなりたいと必死に闘ってきた。でも……」

「でも」

と百合も繰り返した。

「大人になってから、大人になり続けることが難しいとわかった。なり続けようとすると不安が広がる。こんなはずじゃないことも、たくさん起こる」

「わかるわ」

言いたいことがわかるから、百合も苦しくなる。

「娘にはいじめを経験させたくないと必死に守ってきた。でもあの時の自分だって、いじめなんか、されたくなかった。知らなければどんなに素敵な14歳だったんだろうって悔しくなることもあった」

飛鳥がぎゅっとこぶしを握った。目に涙を浮かべている。

「飛鳥さん」

百合は思わず、飛鳥を両手で抱きしめた。あの時のように。守ってあげたかった。あの時の自分を。14歳の幼かったわたしを。

「でもね」

と飛鳥は涙をぬぐって、前をじっと見つめた。

「知らなければいいことを、私たちは知ってしまった。知ってしまったことを後悔しても始まらない。知ってしまった私たちは、だから幸せにならなければいけないと思う。それが知ってしまった私たちが成し遂げられること。大人を続けるために」

振り返った飛鳥が、百合に微笑んだ。

「だから、私たちは大人になり続けるために、幸せになりましょう。ねえ、百合ちゃん」

(つづく)ー次回は12月24日(日)公開です。



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この記事のライター

ワーキングウーマン2万人以上の取材をもとに、恋愛、婚活、結婚をテーマにコラム、ルポ、小説など幅広く活動中。

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