【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(6)

【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(6)

(前回までのあらすじ)成功者の夫に子どもふたり、アパレルブランドのディレクターとして人も羨むような人生を歩んできた百合。しかし夫の不倫が発覚し、心は揺さぶられる。そんななか会社の後輩・新垣との距離がグッと縮まるできごとが。さらに両親の不仲を察したのか、長女の明日香が百合に優しい言葉をかける。


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第一章・百合の場合(6)

 秋吉瑤子の新作コレクションの当日は朝から雲一つない澄み切った青空が広がっていた。強い北風にコートの襟を立てながら、百合は自分が発掘した新人を成功させようと自分に言い聞かせた。決めたことをやり遂げたいと願うのは、今の自分に満足していないからだ。

 会場に到着すると、リハーサルまで1時間以上もあるというのに、既に秋吉瑤子が念入りに出展するブランドをチェックしていた。瑤子のプロ意識を感じて嬉しくなった。

「いよいよね」

「はい」

 頷いた瑤子の目には光が満ち溢れていた。緊張をはねのけて栄光を手にするデザイナーたちと同じ光だ。百合は安心してスタッフとの打ち合わせに入った。

 照明や音響、さらに運搬などを担当する裏方スタッフに、倉庫部門主任の新垣歩も混じっていた。新垣と目が合った百合が会釈をすると、新垣は無言で頷いた。夫の部下で愛人の及川美和に直談判するという新垣の提案を止めた百合だったが、新垣の好意には素直に感動した。お互いに家族のことを自然に打ち明けられたのも、不思議なことだった。

「楠本さん、じきリハーサル始まります」

 進行係の声に緊張がみなぎっている。

「みなさん、ではよろしくね」

 百合はあわただしくリハーサル会場に向かった。

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今日子が恵比寿のバー「カフェソサティ」のドアを開けると、鈴の音が響いた。誰もいない店内で、ノブミツがグラスを磨いていた。

「マスター、百合さんを連れてきたわ」

 今日子に続いて百合がバーに入ると、モブミツが口を尖らせた。

「心配していたのよ、百合。あんた音沙汰ないじゃない、てっきり愛人刺したかと思ったわよ」

 実際にオイスターナイフを突き出したことを知ったら、ノブミツはどんな顔をするのだろう。

「百合さんが担当した新作ブランドの発表会が大成功したの。お祝いしましょう」

「シャンパン開けようか。お祝い事はちゃんとしたほうがいいよ」

「そうね」

 華やいだ気持ちにはなれないが、今日子とノブミツの好意に押されたせいか発表会の高揚感が蘇ってきた。
 ノブミツがグラスにシャンパンを注いだ時だった。チャリンという鈴の音とともに、真由美が現れた。

「あら、お祝いなの」

「百合さんがプロデュースした新作ブランドの発表会が大成功だったの。マスコミ席でも感嘆の声が途切れなかったわ」

 女性サイト編集長の今日子が発表会の模様を語り出すと、やっと終わったという安堵感が広がった。ノブミツも一緒にシャンパンで乾杯すると、今日子や真由美とも話が弾んでいく。子供たちが寝静まった家で、眠れない夜をもてあましながら一人でモルトウィスキーを飲んでいたことを思い出すと、悲しくなった。

「二子玉川に越してから、どうしていたの。バーにもこなくなったでしょ。ずっと気になっていたの」

 心配そうに見つめる真由美に

「マスターから何も聞いていないの」と尋ねると

「いいえ」と首を振りながら

「何も聞いていないわ。ね、マスター」

「お客様の個人情報をぺらぺら喋るような常識知らずじゃないわよ。そんなことしたら、この商売やってられないわ。仕事ってプライドをもってやるもんでしょ」

 水商売20年のノブミツの自慢話を笑いながら聞いているうちに、ふっと全部話せたら楽になるような気がした。

「あら、百合、なんかいいたそうじゃない」

 絶妙なタイミングで促すノブミツ。

「そうね」

と三人の顔を眺めながら

「私、夫の不倫現場を目撃したの」

と告白した。

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バーの空気が凍りつくのを覚悟していたが、意外にも「大変だったね」と真由美が同情し、今日子が「よくある話だけど、いざ友達のことになると、たまらなく辛いよね」としんみりとした口調で慰めてくれた。二人は間違いなく私の友達だと思った途端に、これまで堪えてきた苦しみが一度に吹き出てきて、百合の頬に幾筋の涙が流れていく。真由美が差し出したハンカチを頬にあてながら、新居祝いの日に夫の愛人にオイスターナイフを突き出してしまったことから、健司との関係がぎくしゃくしてしまい、長女の明日香が冷めていく夫婦関係を敏感にキャッチしてしまったことも打ち明けた。

「夫が不倫しただけもショックなのに、愛人を新居に呼ぶなんて。ナイフのことは、百合さんのせいじゃないよ」

 いつも穏やかな真由美が珍しく興奮しながら、百合を庇ってくれた。頬杖をついていた今日子は、姿勢を正してから、

「そもそも自分の愛人を家に招くなんて。それは男の腐った優越感ね。部下たちが新居祝いに伺うという状況になったとしても、ストップをかけられるわけでしょ。親族だけの内輪の会とか言えばいいのよ。ひょっとしたら愛人が新居祝いに行きたいとねだったんじゃないの。もしそうなら、バカップルよ」

「今日子さん、辛辣すぎるわよ」

 真由美が止めようとしたが、今日子はさらに続けた。

「そもそも百合さんって、ワンオペ育児よね。夫が有名なコンサル会社で出世したのは、仕事も家事も育児も全部百合さんに任せて仕事だけに邁進したからでしょう。妻にワンオペ育児を強いて、自分は不倫して、しかも愛人を自宅に招くって、傲慢」

 今度は真由美も止めなかった。

「ワンオペ育児はしんどいよ」

と同情する。

「子供たちが小さい頃は、義理のお義母さんに留守番を頼んだこともあったし、ハウスキーパーを雇ったこともあるわ」

と百合が正すと

「でも、ご主人は家事も育児もやらなかった。だから子供たちは百合さんのことしか見ていないのよ」

と今日子。すると

「今日子さん、言い過ぎよ。仕事人間の夫を支える妻だっているのよ」

とまた真由美が百合を庇う。

「仕事一筋の夫を支えた挙句に、不倫だなんて。しかも愛人に生牡蠣の下ごしらえを手伝わせるだなんて。アラブの石油王でもあるまいし。私ならそんな男の妻なんか、やっていられない」

と今日子の辛辣さは止まらない。

 一貫してシングルという視点から、今日子が夫婦のあり方を鋭くついてくる。言い方はきついが、今日子の言い分にも一理あると百合は思った。

「子供たちは、私しか見ていないわ。下の子は11歳と幼いこともあるけど、高校一年の長女も夫を尊敬していないの」

「やっぱりね」

 シャンパングラスを片付けて次のカクテルを作っていたノブミツが手を休めた。

「子供は何でも知っているよ。可愛い子供たちのために、百合は誰からも好かれようとする自分から卒業することだね」

 百合がため息をついた。

「実は会社の後輩男性から、同じことを言われて」

「誰? 会社の男って」

 全員の視線が一斉に百合に注いだ。

「倉庫部門の主任で、愛人に直談判しようかって」

 すると好奇心に駆られたノブミツ、真由美、今日子から次々と矢のように質問が飛んでくる。戸惑いながら答えていくうちに、新垣と門前仲町の不動尊を参拝したことが温かな思い出として広がっていった。

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クリスマスまで10日余りとなったある朝、東京に初雪が降った。ちらほらと粉雪が舞うだけで積雪とならなかったが、百合はたまらなく外出してみたくなった。いつもと違う日には何かが起こる。ジンクスと笑われるかもしれないが、百合の人生のターニングポイントとなる日は、必ず「いつもとは違うこと」が起っていた。

 年末までほぼ毎日残業という忙しさのなか、この日は新作ブランドの反響を店舗でリサーチだ。百合は複数のアポをとって店舗に出向いた。

 銀座、日本橋を回ってから、日本橋の路地にある和食店で、築地から直送の刺身と焼き魚のランチを食べる。いつもとは違う場所で食べるのは新鮮だった。銀座線に移動しようとしたときに、東西線のホームが見えた。日本橋から東西線で新垣が勤務する東陽町まで4つの駅を経由する。時間にすると10分足らずで到着する。新垣は今頃どうしているのだろう。

 新垣から会いたいというメールをもらっている。心配してくれているとわかっているからこそ、返事を出すのを躊躇している。

「私も会いたい。でも会うとまた会いたくなる」

 あの夜、不動尊堂の灯りが新垣の表情を照らしだすと、彼の精悍さと繊細さが交錯した。陰影が彼を包みこんで、お堂の光に反射すると、明も陰もまじりあった一人の魅力的な男性が浮かび上がる。夕刻のお堂の参道を歩いた彼との思い出が、百合をときめかせていく。夫の不倫で弱くなっているから、他の男性に惹かれているのだと、百合は自分自身に言い聞かせた。

 銀座線に乗車して赤坂見附で乗り換えてから、新宿に出た。3つの百貨店を巡回すると、日が暮れて粉雪がちらほらとコートにかかった。最後は表参道の予定だが、外出した店長の帰宅が遅くなると、中止になるかもしれない。店舗に電話を入れると、予感したように店長はまだ戻っていなかった。だがスタッフが配慮してくれたおかげで、百合は店舗で店長を待つことになった。ワイン色の革の手袋をオーバーコートのポケットから取り出しながら、百合は丸の内線へと向かった。

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 神宮橋交差点から表参道交差点までのけやき並木に、発光した明かりがずらりと灯って幻想的な夜を奏でていた。表参道のイルミネーションに舞い散る雪が、クリスマスのロマンチックな雰囲気を高めている。新垣と一緒に散歩できたらという憧れを打ち消して、百合は表参道ヒルズの横の路地に入ると、洋館のドアを開けた。

「いらっしゃいませ」

 ショートカットに太い眉、ルビー色のリップスティックのスタッフが出迎えた。洋館スタイルのブティックの全店内をミラーが囲んでいる。「鏡の国のアリス」のようなファンタスティックな空間に、百合は息を呑んだ。

 店長が帰るのを待とうとした時だった。ドアが開いて、一人の長身の女性が入ってきた。サングラスをかけているが、肌は店内のミラーに照らし出されて輝いていた。セリーヌのバックにエルメスのスカーフをセンス良く巻いている。一目で芸能人とわかる女性に注目したのは、百合だけでなかった。

「店長を呼んでほしいのだけど」

 鼻にかかる甘ったるい特徴ある声に、百合は声を挙げそうになった。女性も百合に視線を移し、まっすぐに見つめた。

「ひょっとして、花田さんなの」

 旧姓を知っているのはごく限られた人たちだ。百合も思わず「井本さんですか」と懐かしい名前を口にすると、女性はゆっくりと頷いて、百合のいる場所に向かって歩き出した。

(つづく)



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この記事のライター

ワーキングウーマン2万人以上の取材をもとに、恋愛、婚活、結婚をテーマにコラム、ルポ、小説など幅広く活動中。

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