【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(2)

【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(2)

(前回までのあらすじ)成功者の夫に子どもふたり、アパレルブランドのディレクターとして人も羨むような人生を歩んできた百合。しかし夫の不倫が発覚し、心は激しく揺さぶられる…。


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第一章・百合の場合(2)

 橘今日子と香川真由美が「あら、百合」「いたのね」と声をかけながら、カウンターに座った。

「二人そろってなの?」

「ううん、路地でばったり」

 ノブユキからおしぼりをもらう今日子。百合より3つ年下の39歳の今日子は、肩までかかるボブヘアで、パールのピアスが漆黒の艶髪を際立たせていた。サブカルのライターだったが、5年前に一大決心をしてウェブ制作会社に就職。2年前から女性向けポータルサイトの編集長だ。大きな瞳でじっと見つめられるとミステリアスな雰囲気に飲み込まれそうになるが、さっぱりした性格で男前だ。だがなぜか「姉御」と言われると強い拒否反応を表す。それが可愛いと、年下女子から慕われている。

 今日子がジントニックをオーダーすると、スマホがコールした。

「ちょっとごめんね」

そそくさと今日子が外に出た。

「忙しそうね、今日子」と百合はドアの方を振り返ると「男よ、きっと。39歳独身、バリキャリ。モテキなのよ。いいわね」と真由美が目を細めた。

「真由美も、いいことがあったみたい。お肌つるつる」

「ええ、まさか」

「以前いいなって褒めていた同僚の男性はどう?」

「不妊治療の愚痴を聞いてくれる男性としては、最高ね」

 真由美はほつれた髪を耳にかけた。ロングヘアをねじり編み込んでカチューシャ風にアップしたヘアスタイルのせいか、真由美のほっそりとした白い首筋が色っぽい。37歳の真由美は三人の中で一番大人びて見える。

「忙しいのに、いつも綺麗にしているね」

「うちは子供がいないから、百合さんのところより朝が楽なの」

「続けているの、不妊治療」

「ええ。長くやるものじゃないと思うけど。でもこの前の敬老の日にお義母さんが孫の顔を見たいって」

「姑って大変ね」

「でもとても優しい人なの。いつも気遣ってくれるし、本当の母親だったらどんなにいいかしら」

「本当のお母さんと会っているの?」

 するとたちまち真由美の表情が沈んでいき、やがてため息が漏れた。

「相変わらずよ。兄のことばかり可愛がっている」

「5年前まで仕送りしていたのにね。真由美さんってとても親孝行」

「それは言わないで。マスター、私に甘酸っぱいカクテルをお願いね」

 するとノブユキが「だめ」と首を横に振った。

「不妊治療中なんだから、アルコール控えたほうがいいわよ。アルコール打ち止め。あたしが美味しいソフトドリンクを作ってあげる」

「……はーい」

 今日子も真由美も自分も、ノブユキに逆らえないと百合は苦笑いする。三人は麻布十番の商店街から少し外れた路地裏にある「キャット」という老舗のカフェの常連だった。百合は学生時代から、真由美は以前勤務していた会社が近かったから、そして今日子はサブカルライター時代に取材をしたことがきっかけで、週一回は必ず「キャット」のママと 猫の話題で一時間以上も盛り上がっていた。だが、たくさんの思い出が詰まったキャットは5年前に閉店し、80歳になったママは故郷に帰った。お別れパーティーで一緒にママを送った三人は、ママの旧友のノブミツが経営するバーに通うようになったのだ。

「百合さん、何か悩み事でもあるの」

 真由美がノンアルコールのカクテルをゆっくりと飲みながら、尋ねてきた。

「いいえ、どうして」

「うーん。なんか元気がないから」

「引っ越しで疲れているのよ」

 アマルフィのグラスを傾けながら、友達にも打ち明けられないもどかしい苦さが、ゆっくりと体中を駆け抜けていった。

 秋が一日ごとに深まっていく。バーベキューをせがむ匠に、明日香が「これからは鍋でしょ」とたしなめているのを微笑みながら眺めつつ、百合は明日の引越しパーティーの下ごしらえをしていた。
「それにしても」と百合の心は重くなる。

 ノブユキに「百合、あんたが決めなさい」と叱咤激励された時は、夫の不倫を何とかしてやめさせると決意したのだが、いざ健司を前にすると何もできない自分の無力さに、百合は打ちひしがれていた。可愛い明日香や匠のためにも、夫に戻ってほしい。どうしたらいいのか。悩み相談のサイトを検索してみると、「家出をして夫に反省してもらう」とか「親戚や友達を巻き込んでやめさせる」など、アクティブな方法が目立っていたが、どれも百合にとって現実味を感じることができなかった。だが行動しないと何も始まらないことも、百合は知っていた。

 ドレッシングボールの中でオリーブオイルとレモン汁、塩、酢とブラックペッパーを入れて、泡だて器でかき混ぜていると、健司が帰宅した。

「ただいま」

 ダイニングリビングのソファに座り、ネクタイを緩めた。
 いつもは挨拶をしてから自分の部屋で着替えるのに、今夜はいきなりリビングにやってきた。アルコールのにおいがうっすらと漂っている。冷蔵庫からミネラルウオーターのペットボトルを取り出して、コップに注ぐと一気に飲んだ。

「おかえりなさい。接待でかなり飲んだの」

「うん」

「お風呂じゃなくてシャワーのほうがいいかもね」

「いや、風呂にする。飲んだ後はジャグジー風呂が気持ちいいんだ」

「すぐに入るの」

「うん」

 そういいながら、健司はリビングでぐずぐずしていた。背広を脱ぎ、ポケットからスマホを取り出して、リビングのテーブルに置いてから、靴下を脱ぎ始めた。いつもは脱衣所で脱ぐはずなのに、珍しい。アルコールと足の匂いが混じってリビングに漂いそうだった。

「溺れないでね」

「え。何?」

「ジャグジー風呂で溺れないでね」

「ああ、風呂のことか」

「何のことだと思ったの」

「いや、別に」

 健司は再びミネラルウオーターをグラスに注いで飲み干した。グラスは結婚記念日にもらった北欧製のグラスだった。

「健司さん、そのグラス、結婚記念日のお祝い。別のグラスで飲んでほしいんだけど。それからそのグラスをゲストルームのガラス棚にしまってね」

「わかったよ。その前に」

 健司は言いにくそうにしてから、一気に喋った。

「明日の引越しパーティーに、会社の部下たちも来ることになった」
「ええ? なんで突然?」

「5人増える。悪い」

「いきなり5人って言われても…」

「部下たちが各自フードを持参するそうだから」

「独身の気楽なホームパーティーじゃないのよ。お義母さんや従妹たちも来るのよ」

「……だから、悪い」

 健司が北欧製のグラスを洗って丁寧に拭いてから、「じゃあ、頼む」とグラスをもって廊下に出た。百合はドレッシングを作る手を休めた。
 5人も追加。しかも部下ということは、あの女も来るのかしら。

 テーブルに置いたままの健司のスマホから、着信の音がピッとなった。気になって覗き込むと「高級な牡蠣、ごちそうさまでした」とある。

 相手はmiwa。及川美和。夫の愛人だ。

「牡蠣を食べてきたのね」

 突然、目の前の風景がガラガラと崩れ落ちていくような感覚に陥った。思わずしゃがんだ百合は、その風景が幻であってほしいと願った。

 体育の日は朝から快晴だった。健司はベランダにテーブルやいすを運んでテラス席を作り、百合は大型のオーブンにローストビーフ用の肉を入れた。サラダボールに無農薬野菜とドレッシングを混ぜ合わせ、年配客用に、大皿にひじきや切干、サンマの梅干し煮やゴマ団子、だし巻き卵や豆腐料理を盛りつけた。
「手作りのピザはローストビーフが焼き上がってから。パスタとドリアは従妹が担当」と段取りを確認してから、炊き上がった十六雑穀米でおにぎりを握り始めた。昨夜5人追加を従妹にラインしたら、同情してくれたのだ。

「ママ。玄関のお掃除が終わったよ」

 明日香と匠がはしゃいでいると、インターフォンが鳴って、テレビモニターには、義母、従妹夫婦、義理の叔父と叔母の夫婦が、その後ろに健司の部下が揃って並んでいた。及川美和の唇が気のせいか濡れているようだった。
 百合は大きく深呼吸をした。

「いらっしゃいませ」

 テラス席には多摩川からの風が流れてくるせいか、リバーサイドパワーが溢れ、パーティーも賑わいを見せていた。
 午後3時ぐらいになると、年配客たちはリビングに移動し、温かなお茶をすすってから、帰宅の途に着いた。従妹夫婦と健司、そして部下がゲストハウスに移動してワインを飲み交わしていると、健司のビジネスパートナーが遅れて到着した。高級シャンパン、ローラン・ペリエとお土産を百合に渡した。

「ローラン・ペリエと相性の良い牡蠣を持ってきた」

 健司の部下から歓声があがった。従妹の七海が「手伝うね」と一緒にキッチンについてきてくれた。

「まったく主婦の仕事が増えるわね。出してすぐにたべられるものをもってきてくれたらいいのにね」

 5歳年下の七海が口をとがらせながら、牡蠣の殻をオイスターナイフで開けようとしたが、なかなかうまくいかない。

「牡蠣の平らな方を上にして、ちょうつがいの部分を手前にして持つの。そうそう。それからナイフを殻の中に差し込んで貝柱を切ってみて。貝が開くわよ」

 説明しながら、キッチンナイフで実践してみせたが、七海のナイフさばきはぎくしゃくしている。

「上の貝と下の貝の合わせ目にナイフの先端をあてるの。隙間があるなら、隙間を狙って。ナイフの先が貝の中に充分入ったら上の貝の内側を滑らせるように左右に振るのよ。すると貝柱がすっと切れるわ。焦らないでね」

 七海は次第に慎重な手つきになっていった。やがて貝柱が切れると、同じようなやり方で、下の貝殻の処理に取り掛かる。

「百合さん、本当によくやっているよね。私なんか、生牡蠣の殻のこじ開けなんか、絶対、武史に任せるよ」

 武史というのは、七海の夫だ。5歳年下の武史は、七海の頼みは何でも聞いてくれるという。

「年下は楽だよ~頼めばやってくれるし、威張らないし、自然体だし」

「武史さんは七海さんと相性がいいのよ」

 牡蠣の殻をサクッと開きながら、百合は健司と相性が良いと思ったことがないことに気づいた。望まれて結婚することが百合の理想の結婚だった。だが結婚は実際にしてみないとわからないものだ。
七海のように最初から相性の良いカップルもいれば、結婚してから徐々に繋がりを深めていく夫婦もいる。結婚してからは、深まる関係が理想に見えたが、実際は理想からほど遠い。牡蠣の貝柱を切りながら、貝殻のように二枚重ねの夫婦になりそこねていく自分たち夫婦の姿が悲しく見えた。

 食器棚の上に置いていた七海のスマホがコールした。

「ちょっとごめん。仕事関係者だわ」

 企業の広報室主任の七海もそれなりに忙しいのだ。百合は残りの10個を一人で全部処理するつもりで、ナイフを忙しく動かした。

「あのう…」

 声の方を振り返ると、及川美和だった。
 おずおずとキッチンに入ろうとする。

「私も手伝うように言われたんですけど」

 百合は無言で貝柱を切っていく。七海が速く戻ってくればいいのにとイライラしたが、及川美和はその場から動こうとしなかった。

「誰に手伝うように言われたの」

「楠本チーフです」

 夫に命じられたからといって、妻を手伝う愛人って、いったい何なの。二人で私を舐めているの。
 ふつふつと怒りが沸いてくると、ナイフを持つ手が小刻みに震えてきた。

「あのう、何か手伝うことがありますか」

 ピンク色のルージュにグロスをたっぷり塗り込んだ唇は、まるで口のお化けみたいだった。口のお化けが口を動かすと、さらにエロいと百合は忌々しくなった。湧き上がる衝動が抑えきれなくなりそうだ。七海、帰ってきて。百合が心の中で祈った瞬間だった。

「開いた牡蠣を盛りつけましょうか。レモンは冷蔵庫ですか」

と、及川美和が冷蔵庫のドアを開けた時だった。

「触らないで。泥棒」

 百合はオイスターナイフを美和に突き付けた。まな板の数個の牡蠣が、次々と床に落ちていった。殻が散乱したが、百合は目もくれずに、美和にナイフを向けた。

「あなた、健司と昨夜、高級牡蠣を食べたでしょう。この間は用賀のマンションの駐車場でキスしたでしょう」

 ぎらぎらと光るのは、ナイフではなく、百合の血走った目だった。
 美和が「やめて」と後ずさりした時、ナイフが飛び出しそうになった。
百合の背後から、七海が百合を抱えた。「渡して」と耳元で囁く七海に、百合は従った。

(つづく)



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この記事のライター

ワーキングウーマン2万人以上の取材をもとに、恋愛、婚活、結婚をテーマにコラム、ルポ、小説など幅広く活動中。

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