【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(1)

【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第一章~百合の場合(1)

眠れない夜…大人の上質な恋愛小説はいかがですか? 第一章、ふたりの子どもの母として妻として、責任ある仕事を任される大人として生きる百合のお話です。


第一章・百合の場合(1)

 横浜港大桟橋の客船から汽笛がごーっと鳴り響いた。

 頭上のカモメが低空飛行に入る。雲一つない澄んだ青空と、陽光が反射した海面がきらきらと光っていた。
乳母車を前にベンチに腰を掛けてスマホをいじる若い母親やリードをしっかり握って犬の散歩に夢中の年配女性、そしてTシャツ一枚でランニング中の男子学生、手を握ってうきうきと歩く熟年カップルと、平日の昼下がりの山下公園にはゆったりとした時間が流れていた。

欄干の手すりにもたれながら、秋吉瑤子が彼方の海をうっとりと眺める。

「この景色がとても好きなの」

 パープル色のターバンを頭に巻き、ジーンズに虹色のサリーをまとった瑤子が、隣に佇む楠本百合に微笑んだ。
 秋吉瑤子が新進デザイナーとして注目される前から、百合は瑤子の才能を見抜いていた。代官山に本社があるアパレル会社の企画開発室から制作部に異動になった7年前の春、新人発掘のイベント会場で瑤子のデザインを一目見るなり、エキゾチックな作風に魅了された。しかも瑤子が同じ横浜出身とわかると、ますます興味が沸いた。制作部の進行管理を担当しながら実績を積んでいくうちに、やっと2年前から自分の企画が通るようになった。自社ブランドを瑤子に依頼すると、百合の期待に応えるように精力的に作品を描き、そしてとうとう来春のコレクションに瑤子のブランドが決定したのだ。

「瑤子さんの原点は横浜ね」

早朝から瑤子の実家を訪ねた百合は、作品の一つ一つに感嘆の声を挙げた。学生時代のデザイン画には、粗削りだが瑤子独特の色彩美の世界が既に出来上がっていた。赤、黄色、オレンジの明るく鮮やかな色調に、藍色や深緑といった日本古来のわびさびの色合いが微妙なバランスをとりながら、独特の世界観を作り上げていた。

 コレクションのビジョンが見えてくると、あっという間に打合せが終わった。山下公園の近くでランチを提案したのは、瑤子だった。

「横浜が私の原点なら、テーマはあれね」

 瑤子が客船のほうを振り返った。

「あの客船は昔から変わらないわ」

「どんな風に」

「夜になるとシャンデリアをまとったように煌びやかになるの。昼の顔とまるで別人よ。ジキルとハイドのようにね」

 百合は欄干の手すりからすっと腕を離した。

「ジキルとハイドなんて。怖いですね」

「そうかしら。人間って誰でも二面性を持っている。だからこそ面白いんじゃないの」

「さすがは作家ですね。言うことが違うわ」

 私には人間の二面性を面白がるなんてできない。心の中で呟きながら、百合は大観覧車の方向を眩しそうに眺めた。観覧車の向こうには、中学一年生の時に転校した学校がある。二度と思い出したくない壮絶な記憶が、あのあたり一帯に広がっていた。

 百合が客船のほうに視線を移した瞬間、カモメが再び低空飛行する。カモメの翼が陽光に反射すると、鋭利なナイフが光を放つ映像と重なった。ぎらつくナイフ。後ろから迫ってくるセーラー服の女子中学生たち。ナイフの腹で頬をぴたぴたと撫でられた恐怖の瞬間―――あの時が蘇る。百合の全身に震えが走った。苦くて痛い記憶が次々と襲い掛かり、百合はそれを必死に追い払おうとした。

 横浜から本社に帰宅した百合が、コレクションの進行管理データをチェックしていると、16歳の娘の明日香からラインが届いた。「あした授業で使う水彩画絵具を用賀からもってきて」。

 母親の会社がノー残業デーだとわかってラインを送ってきたのだ。ちゃっかりしているわねと苦笑いをしながら、百合は手早く仕事を終えて、用賀にある元のマンションに向かった。

 半月前に、二子玉川の新しいマンションの契約が済むと、さっそく夫の健司の母から、電話がかかってきた。

「今月中に引越しをして。さもないと、楠本家の運気が下がるから」

「今月中って、あと二週間しかないですけど」

「でも江口先生がそういうのよ。引っ越してね」

 江口先生というのは、健司が生まれた時から義母が見てもらっている方位鑑定者だ。義母は健司の進学も就職も相談するほど傾倒している。まったく面倒だわとため息をついたものの、百合は義母の手前、にこやかに従った。だが一度に引越しというのはかなりハードルが高かった。荷造りだけで精いっぱいだ。そこでまず家電や家具など大きなものとすぐに使う衣類や雑貨を二子玉川のマンションに移して、残りを少しずつ運ぶことにした。明日香と小学校5年生の匠には、学校で必要なものを全部荷造り用の段ボールに入れるように言い含めたつもりだったが、いざ引っ越してみると、ちょこちょこと取りこぼしが出てきた。百合の場合も同じだった。整理できなかったアクセサリー、アロマポット、今日どうしても履きたいお気に入りのヒールなど、思い出すたびにたまらなく手元に置きたくなる。物に関して執着がない百合だが、必要な時にないと寂しくなる。愛着という感情は目の前にないことがわかって初めて湧き上ってくる、無いものねだりのようなものだ。

 用賀駅の改札から地上に出ると、満月が見えた。公園を通り、スーパーの横の路地を曲がって住宅地を歩いていると、10階建てのマンションが現れた。手前に隣接する駐車場を覗き込むと、奥の方に夫の健司のボルボが駐車していた。

「来ていたのね。教えてくれてもいいのに」

マンションのエントランスに向かおうとすると、駐車場のエレベーターから降りてきた健司がちらりと見えた。声をかけようと駐車場に戻ると、健司の後から続いて若い女性が下りてきて、慣れた手つきでボルボのドアを開け助手席に座った。はっとした百合は、とっさに近くに駐車している車に隠れて息をひそめた。

 運転席に座った健司と助手席の若い女が二言三言やりとりをすると、すっと健司の頭が若い女に被さる。それはまるでスローモーションのようなゆっくりとした動きに見えた。ものの10秒の出来事が、1時間以上の出来事のようだった。夫の頭が動いて女から離れると、女の唇が濡れていた。百合の動悸が激しくなる。車と車の間にへなへなとしゃがみこむと、ボルボのエンジンの音が響いた。通り過ぎていった瞬間に、若い女と目が合い、再びスローモーションのように目の前の景色が流れていった。若い女は、どこかで見た顔だった。

 きらめくライトに照らされた夜の恵比寿ガーデンプレイスを通り過ぎて路地に入ると、薄暗い空間にぽつんと『カフェ ソサエティ』の看板が見えた。百合がゆっくりとドアを開けると、カウンターの奥に立っているマスターのノブミツがグラスを磨いていた。

「今夜は暇なの?」

「たまたまよ」

 カウンターに座ると、ムーンリバーの曲が流れていた。

「ムーンリバーって、マスターのオリジナルカクテルだっけ」

「残念ながら、あたしのオリジナルじゃないけどね。作ってあげようか」

「お願い」

「今夜はなんだかしんみりしているね、百合」

「そうかな」

 とぼけてみたが、さすがはバーオーナー歴20年のノブミツだ。

「ムーンリバーって、いいね」

「オードリー・ヘップバーンの出世作の一つよ。『ティファニーで朝食を』の原作者カポーティがホリー役のオードリーを『一番のミスキャスト』とけとんけちょんけちょんに非難よ」

「へえ、カポーティは誰を押していたの」

「マリリン・モンロー」

「さすが映画通ね」

 ゲイのノブミツは古い映画の大ファンだ。店名の『カフェ ソサエティ』は近年のウェッディ・アレンの作品名だが、ノブミツは「わたしが先に命名したのよ」と初めて訪れるバーの若い男性客に自慢している。
 ムーンリバーのカクテルが差し出された。
バーボンとクアントローにグレープフルーツジュースでシェイクされたムーンリバーを口に含むと、清涼感とほわりとした甘さが広がった。
「癒されるわ」とため息をつく百合に、「今夜は百合のために貸し切りみたいね。どうしたの」とノブミツ。

 思い切って全部吐き出せたら、どんなに楽だろう。クラスの縁を指でなぞった。

「ダンナが浮気したとか」

「え」

「図星ね」

「浮気どころか、2年も付き合ってた。しかも部下。名前は及川美和。30歳」

「まるで探偵みたいね、調べたの」

「夫の会社に忘れ物を届けた時に受付にいたの」

 澱んでいたわだかまりが一度に決壊すると、これまでのことが溢れてくる。

「駐車場で夫と愛人のキスシーンか。人生って、ほんと、やりきれないわ~。でも百合だけじゃないよ」

 同情したノブミツが可愛いムーンボトルからリキュールグラスに注いで、百合に差し出した。

「ムーンリバーが気に入ったのなら、これ。あたしからのおごり」

「なに、これ」

「アマルフィ。イタリアのレモンリキュールよ」

「アマルフィ。ロマンチックな名前ね」

 ムーンリバーよりもさらに甘かった。上品なお菓子のような口当たりに、さらにしんみりとなった。

「で、どうするの、百合は。愛人と全面対決するの」

「対決って、好きじゃないの」

「愛は闘いなのよ、ファイター!」

「ファイターじゃなくて、ファイトじゃないの」

「小さなことにこだわらない。百合、あんたが決めたことをやればいいの」

「それはそうだけど」

 再びため息をつく。24歳の時に友達に誘われたパーティーで5つ年上の健司が百合に一目ぼれをしてから、猛アタックの末に結婚。翌年妊娠し、26歳で母親になった。望まれて結婚したのに、私より12歳若い愛人と不倫だなんて許せない。プロポーズの時に「絶対に幸せにする」と誓ったのに、なぜ裏切るのだろう。

「人の心は変わるのよ。百合、そんな乙女心なんか、ポイ捨てなさい」

 ノブミツの叱咤が心にずきずきと響いていく。うなだれると、追い打ちをかけられた。

「男女の関係なんか、とっくに風化しているのよ。でもね、あなたは母親なんだから、子供のこともよく考えてみて」

「そうね、私は母親ね」

「母親だけど、最終的に自分が決めたことをすればいいのよ、子供は自分のために母親に自己犠牲を払って欲しくないのよ」

「そうかしら」

 百合は叔母のことを思い出した。45歳で別居してそのまま離婚という流れに持っていきたかった叔母だが、長女が大反対して拒食症になってしまったのだ。そのため離婚をあきらめた叔母は、今でも夫と仮面夫婦を続けている。

「可哀相ね、百合の叔母さんと娘。きっと親子関係もうまくいっていないよ」

 ノブミツの言う通りだった。従妹はイギリス人と結婚して日本を離れたが、親子関係はぎくしゃくしたままだった。

「母親の生き方を娘が受け入れてくれる。それが母親としての幸せなんだろうなって、叔母さんから教わったわ」

「百合、あんたに足りないのは、勇気。嫌われる勇気よ」

「嫌われる勇気……」

 図星だった。自分はいつでも人の目を気にしている。好かれたいという願望よりももっと強い、一種の強迫観念かもしれない。
 チャリンという鈴の音と一緒に、ドアが開いた。

(つづく)



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この記事のライター

ワーキングウーマン2万人以上の取材をもとに、恋愛、婚活、結婚をテーマにコラム、ルポ、小説など幅広く活動中。

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